『クリスチャン』を名乗るなら、本当にキリストを信じ従う『キリストの弟子 』になる必要があります。なぜなら、それが聖書の神様が求める信仰だからです。
しかし、実際の教会には4種類の人々がいると言えるでしょう。
⑴ 本当に福音を信じて救われ、みことばによって養われ、キリストの忠実な弟子として、日々悔い改めと感謝の祈りを持って生きている人…金・銀・宝石で信仰の家を建てるクリスチャン。1コリント3:10~15、ガラテヤ5:22~23
⑵ 本当の福音ー①キリストが私たちの罪のための身代わりとして十字架で死なれたこと、
②葬られたこと、
③聖書に従って三日目によみがえられたこと
を信じて救われてはいるけれど、みことばによって養われることに重きを置かないため、霊的には幼子のままでありキリストより自分を愛している人…木・草・わらで信仰の家を建てるクリスチャン。1コリント3:12、ガラテヤ3:19~21、黙示録3:2
⑶ ある程度教会に通った時点で声を掛けられ、よく考えもせずに(福音を理解せず、または、イエスがキリストだと知っているだけで信じるまでには至っていないまま)洗礼を受けてしまった人…自称クリスチャン。伝道対象者。1コリント15:2
⑷ 異なる福音を持ち込んだり、教会を分裂させようとする人…サタンが蒔いた毒麦。マタイ13:25、ユダの手紙4
神様は、信者が霊的に成長することを願っておられます。
エペソ4:13ーついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
*信仰の一致、神の御子に関する知識の一致…みことばによらなければ、一致はできません。そこに人間の私的解釈が入り込んでしまっては、信仰の一致は難しくなります。
キリストに導く養育係となった律法(旧約聖書)を土台に、新約聖書を理解する必要があります。
ガラテヤ3:24ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
ルカ6:46ーなぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
イエスのことを『主』と呼ぶには、確かに御霊の働きによります。
1コリント12:3bーまた、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
ルカ6:47ーわたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
*わたしのことば…イエスのことばとは、聖書のみことばです。
*聞き…肉体的には目からでも、耳からでも構いませんが、大切なのは『霊の耳、心の耳で聴いて理解する』ことです。
*それを行なう…心で理解したみことばを実際の日常生活の中で実践することです。
イエスのもとに来てただ「主」と呼び、自分の希望、願い事だけを祈るのがクリスチャンではありません!
ルカ6:48ーその人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えてそれから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
*岩の上に土台…生ける神の子キリストのみことばの土台
イスラエルの荒野では、『岩』なのか『ワジ/水無し川(雨季にのみ川となる)』なのか、乾季には見分けるのが難しい所があります。
『砂の上に家を建てる人』は、その水無し川の上に建てる人のことを指しています。
つまり、『似て非なる福音』の上に信仰の家を建てる人のことであり、岩の上に土台を据えるとは、キリストの福音という岩の上に家を建てる人のことです。
*家…信仰の歩み
*洪水、川の水…人生の試練
マタイ16:16ーシモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
マタイ16:18ーではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝ちません。
ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ルカ6:49ー聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。
*「クリスチャン」と称する人々の中には、『信じている』のではなく『イエスがキリストだと分かっている』だけの人がいます。みことばを学ぶ必要を感じない、日々聖書を読むこともしない。だから従うべきことが何かも知らない『クリスチャン』たちです。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
*イエス・キリストを愛する人は、『わたしのことばを守る人だ』とイエスは言っています。
Q:では何故、みことばに聞き従わないのでしょう…?
A:答えは簡単です。イエス様を愛していないからです。
Q:イエスを愛していないのなら、誰を愛しているのでしょう…?
A:自分自身を愛しているのです。
罪の生活が居心地が良く、生活を変えたくないと思っているからです。
イエスに聞き従わない『クリスチャン』は、イエスが『生ける神の子キリストである』ことをわかっている人たちであって、イエスよりも自分を愛している人たちです。
彼らは、キリストのことばを求めてはいないのです。
そのようにみことばの土台のない信仰の人は、困難や迫害に合うとすぐに信仰を捨ててしまいます。そして、中には信じる前よりも荒んだ生活を送るようになる人もいるのです。
ヨハネ14:24ーわたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
「教会で、人につまずいた。」ということを耳にすることがあります。イエス様を『キリストだとわかっているクリスチャン』につまずくのは、仕方のないことかもしれません。なぜなら彼らは、みことばの乳によって成長していない、罪の性質のまま生活している人たちだからです。
人を通して神様は働かれますが、人を通して神を見ることはできません。原罪を持った肉のからだでは、罪の性質から完全に解放されていないからです。
教会で横の『人間』を通して神を探そうとせず、直接、上を見上げ『キリスト』を通して神を見ることが大事ですね。
黙示録21:4ー彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
*このみことばが成就するのは、永遠の都、天のエルサレムです。
たまに「キリストを信じたら、悲しみも苦しみもなくなるのよ。」と伝道している方がいますが、このみことばを今の時代に適用することはできません。確かにキリストを信じた者には、霊的死は何の力も持ちませんから『霊的死もなく』ということは可能です。しかし、キリストを信じても肉体の死はいずれやってくるのです。肉体の死から免れることのできるクリスチャンは、携挙の時に生きている者だけです。
このような伝道は、ご利益宗教的信仰者を生み出すだけです。聖書は、むしろ逆のことを教えています。
今、クリスチャンとして生きるということは、次のみことばの成就になります。
Ⅱ テモテ3:12ー確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
罪の世にあって伝道すれば、友人や家族の反対に合い、関係が遠のくことになったり、時には迫害されたりもします。
もし「信じたのだから、それだけでいい。」「迫害されたり、信仰による苦難を経験したことがない。」というクリスチャンがいたら、伝道したことのない、この世に妥協した生温い信仰のクリスチャンだということになります。
黙示録3:16ーこのように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
Ⅱペテロ2:20ー主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
*みことばに従う決心(土台)のないままで、一時の感情だけでパプテスマを受ける人の悲惨な状態を伝えるみことばです。
神様が求められるキリストの弟子の基準は、決してなまぬるいものではありません。
⑴マタイ10:37ー キリストに従う決心をした時に、家族の反対にあってもイエスに従うことを選びますか?
⑵ マタイ6:33ー自分の都合(趣味や遊びなど)より、神様を第一とすることを選ぶ優先順位を確立していますか?
キリスト教は常に迫害されてきました。時には命がけの信仰を求められることもあります。ヨハネ以外の使徒たちはみな殉教しました。
⑶ イエスを受け入れないこの世にあって、イエスを最優先に生きていく時に覚悟しなければいけない様々な犠牲があることを考慮しましたか?
⑷ すべての持ち物を失っても、イエスに付き従う覚悟がありますか?
厳しすぎる!と感じられる方もおられるでしょう。 ⑶〜⑷は、信仰告白をしてしばらくしてから知る人がほとんどかもしれません。
この罪の世にあって、キリストのみことばに従って生きようとすれば、当然、迫害も困難もありますし、今まで罪の暗闇の中で罪が罪として気づけなかった事が、みことばによりはっきりと『罪』だと示されてきますから、自分はこんなにも『罪人』だったのかと驚くこともしばしばです。
律法も神の選びの民イスラエルに、『罪人であり、自分で自分の義を立てることはできない。メシアを受け入れる信仰による義が必要なのだ。』ということを教えるためのものでした。
ローマ5:20ー律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
ローマ6:17~18ー神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
だからこそ、クリスチャンはしっかりとみことばに立って伝道し、人を導く責任があり、自らも聖書のみことばの基準に服従し、『義の奴隷』として生きる責任があるのです。
それが『世の光・地の塩』であるという生き方です。
…あなたは『キリストを信じているクリスチャン』ですか?